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​2012年のねぷた

平成24年(2012年)
弘前ねぷたコンテストにおいて、知事賞を受賞しました!

鏡絵=三国志 趙雲幼主を救うの図。
見送り絵=孫夫人 (絵師:聖龍院龍仙)

2012年のねぷたのテーマは「ねぷた絵師の想い」と「守り伝える」です。
当団体は、本ねぷたの鏡絵を聖龍院龍仙絵師にお願いして描いてもらっています。その龍仙氏の師匠である石澤龍峡絵師に関連したテーマとして「ねぷた絵師の想い」と「守り伝える」を今年は採用しました。

ねぷた絵は、下絵と呼ばれる原画を描き、それを拡大して大きな扇絵に仕立て上げていく「楷書体」と呼ばれる画法が通常ですが、石澤龍峡氏は頭の中で絵の構図どりをし、下絵なしにいきなり扇に絵を描き上げる「行書体」と呼ばれる画法の開祖であり、”躍動感”と”遊び心”を絵に込めて描かれる高名なねぷた絵師でした。また、龍峡氏は伝統ある弘前のねぷたを後世に伝えていくことを重要と考え、それまでは町会ごとにバラバラだったねぷた囃子の旋律を統一したり、ねぷた絵師の技術向上やねぷた絵の魅力を広く全国に伝えるために津軽錦絵作家協会を設立したりと、現在の弘前ねぷたの基盤づくりに尽力された方で、弘前ねぷた中興の祖と呼ばれています。

1980年(昭和55年)7月31日に石澤龍峡氏が亡くなってから、今年で三十三回忌を迎えます。私たちは今年を機会に、龍峡氏の想いを感じながらねぷた運行してみたいと思いました。石澤龍峡氏の愛弟子であり、ねぷた絵に躍動感と遊び心を取り入れた「行書体」画法を相伝した聖龍院龍仙氏に、33年前の龍峡氏絶筆となった題材「三国志 趙雲幼主を救うの図」を描いていただくこととしました。

龍峡氏はこの伝統ある弘前ねぷたを次世代へ伝えるために、絵を学びたい人のために門戸を開き、私たちの聖龍院龍仙絵師の他に、三浦呑龍絵師、高橋翔龍絵師という立派な絵師を育て上げました。そして聖龍院龍仙絵師もまた、師匠の想いを継承し、門下生をとり指導してきました。
これらを踏まえて今年の城東ねぷたでは、「師匠から弟子へとその技や想いを伝える」をテーマに、本ねぷたは聖龍院龍仙絵師、前ねぷたには龍仙絵師の弟子である、佐藤仙峯絵師、木村邦仙絵師、藤沢墨仙絵師の3人に描いてもらう予定です。師匠と弟子のねぷた絵による共演をご堪能ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


写真は1980年の「三国志 趙雲幼主を救うの図」(絵師:石澤龍峡氏、団体:弘前市職員福利厚生会)

鏡絵のシーン説明
三国志の中でも波乱万丈の展開なのが、天下三分の計の頃です。劉備は軍師として諸葛亮を参謀としますが、その諸葛亮が北の曹操(魏)、東の孫権(呉)、南の劉備(蜀)と国を三分し力を蓄えた後に統一に向けて動くべし!という戦略を立てました。同盟・圧勝・敗走など様々な物語がこの間にあります。

関羽、張飛は劉備と兄弟の杯を交わした仲の武将ですが、趙雲は劉備に忠誠を尽くした部下という立場であり、彼もまた強力な武将でした。
荊州(けいしゅう)をめぐり、曹操と劉備が戦いますが、劉備は農民8万人を連れての大敗走となります。敗走は時間を要し、やがて曹操軍に追いつかれてしまい、劉備は甘婦人や子の阿斗らとはぐれてしまいます。趙雲は劉備からの指示で甘婦人と阿斗を救いに戻ります。、敵味方入り乱れる中からやっとのことで二人を助け出し、子の阿斗を劉備の元に送り届けるのでした。
命からがら逃げおおせた劉備は、この後、孫権と同盟を結び曹操と立ち向かいます。後の赤壁での火攻めは圧勝となるのでした。

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東地区町会連合会ねぷた

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